国際ジャーナル9月号の臓器移植法改正の特集を見て、7月下旬に国会でこの法案が可決されたときのニュースを思い出しました。明暗の分かれた傍聴席には、臓器移植によって助かる命と脳死と判定されても助けたい命を巡る親族たちの姿がありました。改正臓器移植法では、移植するかしないかに関係なく、脳死基準法に基づいて精査され診断した「法的な脳死」を人の死と認め、「脳死は一律に人の死」として捉えることになりました。そして、15歳未満の臓器移植が可能になったことが、小児医療の現場に与えた影響は計り知れないものがあると思います。小児の場合、脳が発育途上にあるので損傷があっても回復する可能性があるといいます。6歳以下の子どもの脳死基準を整備し、小児緊急医療をもっと充実させてないことには、実運用は難しいでしょう。けれど、そもそも6歳にもならない子に「死んじゃったら身体を他の可哀相な子にあげる?」なんて聞けるでしょうか。臓器提供するかどうかは最終的には親が決めるのです。最善の治療をしてもらえば納得いくのか、当事者になってみないと本当に分からないことです。そして、臓器移植によって助かるかもしれない我が子に、臓器を提供して欲しいと願うことが果たして強欲なのか非道徳的なのか、これも分かりません。メメント・モリ。今の私たちは死と隣り合わせのような生活をしながら、あまりにも死から遠くかけ離れた心のあり方で生きているのかもしれないと、臓器移植にまつわる話を聞くたびに想ってしまうのです。
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